そのサント・マリーから更に西へ100キロほどのところに、モンペリエ(Montpellier)という町があります。
ここに素晴らしい早弾きのフラメンコギター奏者がいると、ジプシー仲間で有名でした。
名前をリカルド・バリアルド(Ricardo Baliardo)といい、その優れたギターテクニックから マニタス・デ・プラタ:小さな銀の手(Manitas de Plata)と呼ばれていました*1)。
一方、サント・マリーから50キロほど北方にある町、アルル(Arles)にはカンテ・ホンド(深い歌)の名手 ホセ・レイエス(Jose Reyes)がいました*2)。
スペイン内戦の戦火を逃れ、この地に流れて来たホセは、その歌の実力だけでなく、面倒見の良い性格から、アルルのジプシー集団のリーダー的存在として尊敬されていました。
マニタスは1921年生まれ、ホセは7才年下の1928年生まれです。
彼らは毎年の巡礼祭に出向いて行っては、歌や演奏をジプシー達の前で披露していました。
二人の最初の出会いがいつかは、正確には分かりません。しかしホセが声変わりをしたと思われる1940年代後半か1950年頃には、二人が一緒に歌い演奏した、と推測できます。ジプシー仲間の一番のギタリストと歌い手が毎年の巡礼祭の時に会い、周りにせがまれてはパーフォーマンスをしていたことは容易に想像できるためです。
1955年の巡礼祭の様子を録音した 「Pelerinage Aux Stes-Maries-de-la-Mer」 というLP*3)があります。
マニタスのディスコグラフィーを見ると、この音源が一番古く記録された彼らの音です。
様々なジプシーの演奏が記録されている中に、間違いなくマニタスとホセが共演している音源があります。
この時、マニタスは34才、ホセは27才。既に、この時から彼らのスタイルは確立されていて、以後、発表されていく彼らの数々の音源と遜色無い完成レベルにあります。
因みに、ほとんどの曲が即興演奏です。マニタスのギターは自己流であり、後に正統フラメンコを知る人々から異端児扱いされるわけですが、ここで聴かれる音楽は独自の世界を創出していて、聴く人の心を掴んで離しません。
まさに彼らは、才能あふれた野生の、しかし、素晴らしい音楽家なのでした。
その後、特にマニタスの評判は、フランス中に広がり始め、ついにはソロアルバムを出すことになります。
発表されたのは1955年以降1960年までの間と思われますが、定かではありません。
ディスコグラフィーでは、単に「MANITAS DE PLATA」がタイトルになっています*3)。
1962年にも、マニタスの弟や息子と一緒に演奏した「Disque Pirate Enregistre aux Stes-Maries-de-la-Mer」 というアルバムも出しています。
南フランスにフラメンコギターの名手がいるという噂が広まり、パブロ・ピカソやチャーリー・チャップリン、ジャン・コクトーらの文化人がバカンスで南フランスに行く度に、マニタスとその一族を呼んで演奏をさせることが多くなりました。
マニタスは、彼ら有名人のパーティに呼ばれる度に、自分の弟や息子達とともに、歌い手としてホセを同行することがよくありました。